2011年12月 7日 (水)

面白きこと知りたきことの数多あり……

(承前)

……というわけで、母の思いについて。

母は、戦前、十文字女学院から実践高等女学院の国文科に進み(金田一京助先生の授業なども受けたそうな)、その後、恩師(金田一先生ではなく別の方)の推薦もあって岩波書店に勤めるようになったみたいです。

主に辞書の編集の仕事をしていたとのこと。よくはわからないのですが、言葉をカードに書き出してそれをファイルして……というような。ほかに、いわゆる編集業務のようなこともあったんでしょうか。最近、いろいろ昔話をするようになってからの口癖は「出版社の仕事はあまりおもしろくなかったの。だって人の原稿をあっちからこっちへやるだけでしょう」……って、なんてぜいたくな! 出版業界の人たちが聞いたら腰抜かしますぜ(笑)。わたしも腰抜かしますって。わたしの仕事は人が書いたものを横からたてに直す“だけの”仕事なんだから。

やがて戦火が激しくなり、母も3月の空襲で家を焼かれて山形に疎開。岩波はそのとき退社します。

そして終戦。戦後まもなく父、孝太郎が風邪をこじらせて亡くなり、葬儀に訪れた読売新聞の社長(たぶん馬場さんという人)が「かわいそうだからと拾ってくれて」読売新聞に入社。最初は庶務だったそうですが、そのうち「ちょっと書いてごらんって、記事を書かされたら、なんとなく書けちゃったの」ということで、記者に。(「なんとなく書けちゃったの」のあとに、かならず「あなたもそうでしょう?」と続くのですが、わたしはなんとなく書けちゃった、なんてことはなく、原稿はいつも苦労して書いてます(^_^;;)

その後〈読売ウィークリー〉というタブロイド判の週刊誌に配属され、当時新人で入ってきたナベツネ氏と職場を共にしたこともあったようですが「半年ほどで中央の人脈をつかんで引っぱられていったわよ」ということで、当時からナベツネ氏はそういうことに長けていたみたいですな。いくらなんでももうそろそろ隠居すればいいのにね。

そして(ここらへんがよくわからないのですが)社内で父と知り合い、「おとなしそうな人だと思って」請われるままに、ともに大阪へ転勤。大阪讀賣新聞社の立ち上げの年(1952年)が結婚した年らしい。これも今回初めて知りました(^_^;; 
大阪読売では社会部に配属されて、飯干晃一氏(「シャリやん」)や黒田清氏(「黒ちゃん」)と仕事をしていたみたいです。でも詳しいことはわからず。(余談ですが、ウィキで黒田氏の項目を見ると、今回の清武の乱を彷彿させるところがあって胸が痛みます。清武さんも、もう少し勝算を見きわめてからクーデター起こしてほしかった……。)

ただ、新聞社時代の仕事は「おもしろかった」らしい。それは繰り返し口にしていました。「おもしろい仕事ができたからよかったわ。そうすればあとからいろいろ思い出すこともできるでしょう。おちびさんたちも何かおもしろいことが見つかるといいわねえ」

人脈がどうとか、あとに残る業績がどうとかではなく「おもしろいことが見つかるかどうか」。それが母には一番だいじだったし、子どもに対しても孫に対しても望んだことでした。

うちの長男は、何を胸に秘めているのか語ろうとしないのですが、「おばあちゃんの望みを受けとめなきゃね」と言ったら、「わかってる」ときっぱり言ってくれたので、信じましょう。何をする気か知らないが、しっかりやれよ。

二男は、こんなわが家の環境ゆえ、どうしても出版関係に興味があるようなのですが、実家で妹やわたしの父の前でそんな話をしたら「明日なき業界」と集中砲火(^_^;; ひどいやん。
でも話しているうちに父が「うちのじいさん(父親:わたしの祖父のこと)も昔『帝国発明家列伝』なんていう本を出して、初めは売れたけどすぐ売れなくなった」なんて言いだして「えーっ、そうだったの? 初めて知った」と妹とわたしは唖然。まったくあとからあとから知らない話が出てくる家です。

さて、母は、結婚後しばらく勤めて、わたしができたときに仕事をやめ、その後は専業主婦でしたが、俵万智が『サラダ記念日』を出したあと、それに触発されて、彼女を輩出した同人『心の花』に加わり、短歌を書きおくっていました。1990(平成2)年から2008(平成20年)ごろまで。その雑誌が山積みになっているので、少しずつ整理していこうと思っています。

掲載時にもちょくちょく読ませてもらっていたのですが、あらためて続けて読むと、短歌の集積が個人史にも、家族史にも、小さな現代史にもなっていることに気がつきました。最後にいくつか引用しておきます。
(いずれも『心の花』所収。年、月は掲載月。)

◎世界

戦き(おののき)はさぞ深からんガスマスク配給受くるイスラエルの人よ(1991.1)

フセインとブッシュの大儀相撃てば民逃げまどうアラビア砂漠(1991.4)

◎家族

魂の緒はいまだ切れねば痛むごとみどり児は泣く母を探して(1992.2)

孫らの背鴨居に近しこれがあの母を探して泣きいし子らか(2008.4)

◎花・猫

さりげなく瓶に涼しき百合なれど切花ゆえの疼きもあらむ(1991.9)

人絶えし夜を灯に透きてひたぶるに桜はおのが為に咲くなり(1991.7)

よく食らいよく寝るだけで本当に倖せなのか猫に訊きたい(2007.10)

◎心

口答えせぬと決めれば夫婦の日々たいらかにしてそよ風の如(1991.9)

熱かりし旅への想い鎮め観るテレビの流す外つ国のさま(2006.12)

心にはそれほど皺のよらぬこと老いて気付きぬしみじみ嬉し(2007.4)

面白きこと知りたきことの数多あり退屈知らぬ老いの日々かな(2007.4)

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母を見送る

母を見送ってきました。

11月はじめにまた肺炎で入院してちょうど1か月、本当に木が枯れるようにすべてがすっと細っていって、おだやかに迎えた最期だったと言っていいと思います。

じつは、前の日記を書いた8月の末ごろから、熱海の叔母(85歳)の引っ越しプロジェクトが始まって、10月中は妹とともにそちらのお世話にかかりきりでした。10月末にようやく我々姉妹の住まいに近い新座のホームに引っ越しをすませ、役所の届けなどに奔走しておりました。

そんなわけで母が入院した11月4日も新座市役所に住民票を出しに行っていた(そして、代理申請の書類が不備で受けつけてもらえなかった)のですが、バス停にいるとき実家から携帯に電話がかかってきて、そのまま府中へまわり、熱でぼっとした母をタクシーに乗せて病院に連れていったら即入院、という運びでした。

じつはその1週間前にもケアマネさんから「お母さんがセキをしていらっしゃるので一度診察を受けては」と言われて同じ病院に連れていったのですが、そのときは検査でもさほど数値が悪くなく、母も家で自分でお米をといだりしていたので、まだ元気だなと思っていたのでした。
「おかあさんね、病気っていうより年とった、っていう感じ」というのがそのときの本人の感想。

だから1週間で急激に悪くなったとも言えるし、同時に、「病気というより年とった」というのもまた事実だったんだろうと思います。

入院後数日間は食事もしていたのですが、水気のものを飲みこむとすぐにむせてしまうのでまもなく食事がとれなくなり、あとは点滴と折々の輸血のみに。だんだん、うとうとと眠ってばかりいるようになって、ああ、いよいよ看取りに入ったのだなと思いました。

それでも生命力の強い母は、回復せずとももちこたえ、手を握ればぎゅっと握り返すし、耳もとで「みんな元気だよ。おちびさん(もう小さくない三男のことを母はずっとこう呼んでいました)も元気だよ」というとかすかに笑ったりもしたので、はっきりとではなくてもずっとわかっていたんだと思います。

12月2日(金)の午後に訪問したときもそんなふうで、先生からも「回復してご飯を食べられるようになるとは思えませんが、このままブドウ糖の点滴だけ続けるか、中心静脈栄養(または経管栄養)を入れるか、ご家族で相談してください」といわれたほど。だからネットであれこれ調べて、関係のありそうな本をリストアップしたりして、妹と「かえって負担になりそうだから今のままでいいね」と電話で話し合い……。

そうしたら3日(土)の昼前、携帯に病院からの着信があって、かけ直したら「先生がお話ししたいというのでおいでください」と看護師さんが言うのです。「ああ、栄養の点滴のことですか」と聞き返したら「ええ、それもありますがちょっと血圧が下がり気味なので」と言葉をにごします。ちょうど家族とお昼を食べに行こうとしていたところだったのですがそちらをあきらめ、妹に連絡したうえで府中に向かいました。でも、それほど切迫していると思っていなかったので、食べないと午後持たないからと、駅で軽く昼食をすませてからのんびり病院に向かったら……なんと、最期に間に合わなかったのでした。妹がかけつけて間もなくしずかに息をひきとったとのこと。わたしは5分おそかったのです。

その週も4回病院に通って、たいして長い時間ではないにせよ、ベッド脇でちょっとだけ仕事をしたり、手を握ったり、耳もとで話しかけたりしたので悔いはないです。が、間に合わなかった、という思いは小さなトゲのように心に刺さりました。
でも、もろもろを終えて病院から実家に戻るとき(とても親切な病院で、最後、主治医の先生と看護師さんたちが総出でみおくってくれたのですが)、立ち去り際にひとりの看護師さんがかけよってきて「間に合わなくてごめんなさい」と声をかけてくれたのです。電話口では詳しい話ができないことになっているらしく、私に伝わらなかったのを悔やんでのことか……。
「いえ、今週も何度も通いましたし、いろいろありがとうございました」と答えて、わたしも思わず涙声になりました。
悔いは一方通行ではありえないのだなと、そのとき気がつきました。だから、もう悔いるのはやめます。

母は、クリスチャンでした。

淀橋教会というプロテスタントの教会にたまに顔を出していました。でも洗礼は受けていなかったらしい。これは今回、妹から聞いて初めて知りました。わが実家には語られぬ事実がいろいろ潜んでいます(^_^;;

そもそも母の父、つまりわたしの祖父という人がクリスチャンだったらしい。
祖父は明治9年生まれで、戦後すぐに亡くなっているのですが、祖父の名前を初めて知ったのはなんと昨年でした。母が骨折して入院し、見舞いにいったとき、暇なので昔のことを根掘り葉掘り聞いて初めて「土岐孝太郎」という名前を聞き出したのです。戦前、国民新聞をはじめ、あちらこちらの新聞社に勤めて論説なども書いていたらしいのですが、とっておいた記事などを戦火ですべて無くしてしまったのを母が繰り返し残念がるので、ひょっとしたら大宅壮一図書館あたりに何か残っているんじゃないかと、名前を聞いたのでした。(なんでそれまで知らなかったんでしょうかね。)

で、ネットで検索してみたら、1919年(大正8年=母の生まれた年)に、土岐幸太郎が内村鑑三氏らとともにキリスト教に関する講演を行ったなどという記述が。(自分用にリンク

さらに、なんと土岐孝太郎には『英国膨張史論』という訳書があった!(画像)
これはほんとうに驚きました。母は国文科の出身で外国語はさっぱり、という人なのですが、その父親に訳業があったとは。電子化された資料を見ると、訳者名に「土岐孝太郎君」と敬称(?)がついているのも面白いし、一番うしろの奥付には訳者の住所まで記してあったりしてすごいです。母が住んでいた番地ではなかったようですが、同じ山の手の近くの住所だったので、たぶん間違いないだろうとのことでした。

ああ、なんかぐだぐだになっていますが、そんなわけで、通夜も葬儀も仏式ではなく、かといって正式にキリスト教式でもなく、お花を挙げ、聖歌を歌い、でもお説教はなく、代わりに送る気持ちをたっぷりのせて、とてもささやかな、でも心のこもった式で見送ることができたかなと思います。母がいつも心にかけていた孫3人が涙を流して送ってくれたので、母もさぞうれしかったことでしょう。

昨年1月に骨折してから、リハビリして退院し、同じ年の年末には肺炎で入院したけれど、またも驚異の回復力で復活し、しばらく板橋のホームで過ごしたあと、たっての希望で今年5月末に自宅へ戻り――。
その間、震災もあり(「ここはたいして揺れなかったわよ」……って、そんなわけないんだけど)
4月にはお花見をし、5月にはホームの遠足でわたしもいっしょに箱根に行きました(これは本当によかった)。

振り返ってみると、このひと月だけでなく、足かけ2年かけて長い長い看取りをしてきたのかなと思います。
だから悲しい気持ちはありません。
ありがとう。そしてお疲れさま。それだけ。
そして孫たちよ(つまりうちの子どもたちよ)おばあちゃんの思いを受けついでしっかり生きるように。

その思いとは……ということでしつこいようですが、別エントリであと少しだけ書き足します。

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2011年8月31日 (水)

第3四半期報告(^_^;;

えーと、まあ、いいわけはしないことにして(汗)。
気がついたら8月も終わりですか……。

いくつか宙ぶらりんになっていることのご報告を。

・母は5月の末にホームを退所して自宅にもどり、また父とふたり暮らしを始めています。わたしも当初は週に1度ぐらい行っていたのですが、今はせいぜい2週間に1度ぐらいか。5月からここまでのあいだに父の分も含めてまた何度か介護保険申請のための健康診断や面談があり、一段落したところ。ただ、きのうまたケアマネさんから電話がかかってきて、母が在宅リハビリを受けることになったというので、9月になったらまた顔を出さないとなあと思っています。

・実は両親のほかに熱海の叔母という人がいまして、やはり高齢だけどひとり暮らししてます。これまでも心臓のカテーテル手術などがあり、そのたびに妹が仕事を休んで熱海まで行ってくれていたのだけど、今度は目が悪くなったので(白内障)いろいろ相談して熱海を引き払い、我々姉妹の居住地に近いケアハウスに引っ越してもらうことに。
で、そのためにはまたもろもろの検診やら介護保険の面談やらが必要で、妹もそうそう仕事を休めないので、今日はわたしが泊まりがけで熱海に行って明日の朝イチの検診に付き添うことに。

子どもが生まれてからひとりで新幹線に乗るのは初めてなんですけどね、わたくし。しかも熱海。でも温泉じゃない(^_^;; まあいいや、あれこれ考えずに行ってこよう。(電車の中で本読もう。)

・翻訳の仕事のほうは、目下、チームを組んで「オズの魔法使いシリーズ」に取り組んでいるところ。復刊ドットコムより、順次刊行予定です。(詳細はこちら。)
チームといっても1冊を複数で訳すわけではなく、担当の巻が決まっていて、わたしはまずは3巻担当。ただ、登場人物が共通なので、途中でキャラクターが変わってしまわないように口調や言いまわしを統一することなどをメインに、お互いにチェックをかけながら進めています。たいへんでもありますが、いろいろ勉強になる作業です。古典ですし、刊行予定が決まっているので、プレッシャーもあるんですけど、がんばります。

・5月からは(震災のためひと月遅れでした)大学での仕事も始まっています。
毎週木曜日に3コマずつ、「通訳ガイド」の授業を担当中。(内容は3コマとも基本的に同じ。)
今まで中、高、社会人、塾といろいろなところで少しずつ教えてきたけれど、その中でも一番熱心なstudentsですね。全体で登録が75人ぐらいいて、もっと減るかなと思ったけどけっきょく70人ぐらい残り、そのほとんどが欠席1~2回という立派さ。小テストも真面目に取り組むし。ただ、そのせいで成績をつけるときにえらく苦しんだので(^_^;; 後期はもう少し心をオニにして、試験を難しくしようと考えているわけですが。
これまでの教える仕事の中では断トツで楽しいと感じられる部分が多いけど、その分大変さも大きいです。9月半ばからは新学期なので、またしゃきっとしなくてはいけませんね。

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2011年4月26日 (火)

『きみに出会うとき』にまつわる勝手な思い入れなどなど

新刊翻訳書が出ました。

『きみに出会うとき』(レベッカ・ステッド作 東京創元社)
2010年度ニューベリー賞(アメリカで最もすぐれた児童書読み物に贈られる賞)を受賞した"When You Reach Me"の翻訳です。

いつも翻訳書が出るときには、ちゃんと原作に見合った訳文になっているだろうか、原作のおもしろさを伝えられているだろうか、と、どきどきするのですが、今回はなおさらその思いが強いです。

もともとアメリカの児童書書評誌 Horn Book Magazine (ホーンブック誌)でレビューを読み、タイムトラベル物であることを知って、取りよせた作品でした。タイムトラベルがらみの作品、大好きなのですよ。わたしの中での最高峰は今でも『マイナス・ゼロ』(広瀬正)――これほどまでにタイムパラドックスと真正面から取り組んだ作品があるだろうか――なのですが、ほかに冷凍睡眠をモチーフにした『夏への扉』(ハインライン)も、もちろん日本のジュブナイルSFの金字塔『時をかける少女』も大好き。先輩翻訳者でやはりタイムトラベル物好きの方から奨めていただいたジャック・フィニィの『ふりだしに戻る』もおもしろかったなぁ……きりがないのでこのくらいにしますが。

H.G.ウェルズの、そのものずばりの『タイムマシン』も昔読んだけれど、未来へ行く話には実はそれほど惹かれない。今の自分とつながっているくらいの「少し昔」へ行く話がおもしろいのです。うしろむきなのかな?(笑) ファンタジーでも、完全に別の世界の話を描く「ハイファンタジー」より、日常世界にちょっとした不思議が入りこんでくる「エブリディマジック」に分類される作品が好きなので、それと同じことなのかもしれません。「今ここ」に軸足を残しながら別の世界を垣間見たいのかも。(出不精か?)

そんなわけで、取りよせた When You Reach Me を読みはじめてみたら、あらふしぎ、タイムトラベル物らしき謎はちらつくものの、それよりむしろ12歳の少女ミランダの学校生活や母親との関係がたっぷりと語られていきます。それでもがっかりするどころか、ぐんぐんとミランダの世界にひきずりこまれていくのです。語り口が魅力的で、人物がみんな生き生きしているから。そうして読みすすむうち、しだいしだいに謎が積み重なってゆき、ついに……。

いや~、読み終えて必死にヘタなレジュメを書き始めました。なんとしてもこれは持ち込まなければ、と。
そうして出版社に預けているうちに、なんと2010年1月、ニューベリー賞を受賞。2月に出版が決まったのでした。
そういえばニューベリーが発表になる直前、母が骨折して入院するということがあり、そのころ書店でぱらっと立ち読みした雑誌の星占いに「ショックな出来事のあとにうれしい知らせがあるでしょう」みたいなコメントがあったっけ。……なんでこんなことおぼえてるんだろ(笑)。

その後、2010年秋までかかってトロトロと翻訳していたわけですが(のろい!)、それはちょうどわたしが塾の仕事を始めてひーひー言いながら週3回出勤していた時期とぴったり重なっていました。いろいろな意味で大変だったけれども、この本(ともうひとつ同時期に訳していたノンフィクション)のおかげで精神的なバランスが保てたような気もするし、また塾で出会ったたくさんの子たちが、どこかで学校生活を訳出する上でのリアリティに力を貸してくれたような気もします。

この本にはもうひとつおもしろいご縁がありました。あとがきにも書いたことですが、『五次元世界のぼうけん』(渡辺茂雄訳 あかね書房:原作 A Wrinkle in Time)という作品が、重要なモチーフとして登場するということです。
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この本、小学生のころ府中図書館の児童室で借りて読んだっけ。どこに置いてあったかもはっきりおぼえています。ストーリーは忘れていたけれど、なぜか強烈な印象を残した作品で、その後わたしが早川SF全集へ、さらにはSF全般へと進んでいくきっかけを作った本であったかもしれません。
あれ? そうすると、わたしの「タイムトラベル物好き」はここから始まったのかな? 
五次元→SF好き→タイムトラベル物好き→When You Reach Me→五次元
なんなんだ、この「存在の輪」のような円環は。
(そういえば、担当編集者さんはWrinkleのもうひとつの邦訳版『惑星カマゾツ』(サンリオ)を学生のころ読んで、同人誌にレビューを書いたことがあるとおっしゃってました。)

そんなわけで個人的に、とても縁があるように思えてならない(と、勝手に思いこんでいる)本なのです。
『きみに出会うとき』が、どうかたくさんの人たちと出会ってくれますように――。

↓ 帯つき画像です。片山若子さんの装画がほんとうにかわいいです。そして、写ってないけど、見返しの色としおりのひもが帯と同系色なんですよ。とてもきれい。
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2011年4月 9日 (土)

それでも春は来る

昨日の余震、大きかった。茨城は大丈夫だったでしょうか。また物が落ちてこわれたりしなかったか心配。水や電気は通じているでしょうか。

ふう。本当に疲れますな。余震だけでなく、日々の原発の状況や、自分がなにもできない無力感。あれこれに気を取られてするべきことが進んでいない毎日にも、なんか心が削られる。

それでも春はめぐってきて、桜は満開。自然は人間のことなどかまっちゃいない。

Spring comes around no matter what.

それはそれで、何かふしぎと心が慰められるような事実。ときに視点を遠くに移すことも必要なのかもしれない。

ケータイの写真なので今イチだけれども、近所の春の光景を。


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ショッピングモールわきの菜の花。

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すみれ。

そして、マンションの前の桜、桜、桜。

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昨年の正月に母が骨折したとき、もう一度桜を見せてあげたい、というのがわたしの中でひとつの目標になった。幸い元気になって3月に退院したものの、実家に帰ったら父が外に出そうとしなかったので、残念ながら昨年お花見は実現しなかった。

そして今年もまた入院から始まって、今はホーム。母のいるホームの前には、並木というほどではないけれども、桜の連なる道がある。3月に入って、車いすでなく、ヘルパーさんと手をつないで歩けるようになったので、昨日、念願のお花見をしてきた。短い時間だったけれども、おだやかでとても静かだった。

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母は大正8年生まれだから、4歳のころ関東大震災を経験している。友だちの家で遊んでいたらぐらっときて、その家のおじさんが母と友だちを両脇にかかえて庭に飛び出したのだそうだ。やはり子ども心にも刻まれるものなんだな。
母の家は山の手にあって被害を受けなかったが、母の祖母(わたしにとっては曾祖母ということになるけど、もちろん会ったことはない。なにしろ祖父――母の父親――だって明治9年生まれで、戦後すぐ亡くなっているんだから)は、娘のお産の手伝いで下町に行っていて、1週間もたってから徒歩で帰ってきたのだという。(この話はきのう初めてきいた。)今ならケータイがあるから所在がわかるけれども、当時1週間も行方不明だったら、家族はずいぶん心配したことだろう。ほかにも「神田のおじさん」やら、何人かの親族がしばらく山の手の母の家に身を寄せていたらしい。

「大震災でしょ、それから空襲でしょ、東京もいろいろあったわねえ。空襲は毎日だからほんとうに大変だったわよ」

けっきょく終戦の年の5月か6月ごろに家を焼かれて、先に両親が疎開していた山形へ電車(省線)で向かった。
山形はたいそうのどかで「飛行機ってどんなの? 一度見てみたい」と言われたそうだ。

けっして大きくはない国土のあちこちが、何度も何度も焼かれたり、津波にさらわれたりしながら、それでもまた根気よく立ちあがってきたんだなと、母の話を聞いてあらためて思う。そんなの新聞でもテレビでもさんざん耳にした話なんだけど、実際に体験した人の口から聞くと、厚みを持って伝わってくる。

「日本は、一般の人たちは本当にまじめに働くし技術もあるからいいのよ。でも上に立つ人が頼りないのよね」というのが母の持論。山根一真が日本のまじめで高い技術を持つ技術者たちを取材した『メタルカラーの時代』というシリーズが愛読書で、実家から持ってきてほしいというので、それやこれや持っていったらベッドサイドテーブルの上はこんなふうになった。
Momsbooks

こんな本を読む91歳のおばあちゃんはほかにいないと思う(笑)。
ホームのスタッフの人に「難しい本読んでるねえ」と言われるので、「子どもが難しいのばかり持ってくるのよ。わたしはもっとやさしい本が読みたいのに」と言っているらしい。
うそばっかり!(笑) 
きのう一番あぜんとし、大笑いした母の発言だった。思いっきり笑えることって、ほんとうに貴重なものだと思う。

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2011年3月13日 (日)

できることから

朝起きると体がガチガチ。
昨日寝ようと思ったら緊急地震速報が立て続けに入って、緊張したからかな。
さほどの揺れでなくても、やっぱり身構えてしまう。

家にいて、ちゃんと温かいごはんを食べ、布団で寝てもこんなに疲れるんだ。
ましてや、と思う。

一昨日の地震発生時、わたしはひとりで家にいた。夜に出かける予定があったので、その前に母のいるホームに寄ろうかなと考えながら、ぱたぱたと夕飯の支度をすませ、身支度にかかろうかというところでぐらっと来た。あとから震度を見たら5強で、被災地には比べるべくもないけれども、これまでの人生の中で一番揺れた地震。こわかった。おかしいのは、ぐらっと来た瞬間にダンナさんから電話がかかってきたこと。「かなり大きいね。揺れてる?」「揺れてるよぉ! なんで今電話?」と言った瞬間、TVも電話もぷつっと切れて停電。その後も何度も揺り返しがくる。

半分パニックになりながらラジオと懐中電灯をかきあつめる。
電池が足りなかったので、近所のドラッグストアに行ったら、システムダウンで閉店。そりゃそうか。
でもすぐそばの激安スーパー〈チャレンジ〉からは、買い物袋をさげた人たちが出てくる。
「え、やってるの?」と思って入ってみたら、暗い店内で「いらっしゃいませ。足もとに気をつけて」と店員さんが迎えてくれた。レジは使えず、電卓の手計算。こういうときアナログは強いなあ。

3時半ごろ三男が中学から帰宅。この日はけっきょくダンナさんは会社に、二男は大学に、長男は池袋駅に足止めだった。幸いガスは来ていたので、鍋でご飯を炊き、早めにご飯。ラジオはつけっぱなし。マンションで電力がダウンすると水もこないので、トイレは風呂水をバケツでくんで流した。自分の心覚えとして、ありがたかったものを記しておくと:

・電池式ラジオ
・懐中電灯
・風呂水を抜いてなかったこと
・三男のDSテレビ(ニンテンドーDSでテレビが見られるんですよ。充電式)
・自分が出かけずに家にいたこと
・携帯電話

ケータイは、いつ充電が切れるかとハラハラだったけど、これがなかったら耐えられなかったと思う。通話はむりでメールだけだったけど、ダンナさんとも息子たちとも連絡がとれていたのでほんとうにありがたかった。あとツイッターで友人たちと励ましあったり。

翌日、帰宅難民たちも順次帰宅。長男は池袋駅でひと晩過ごしたらしい。ホームレスの大軍のようなすごい有様だったと。どの店も軒並み閉まる中、奇跡的に空いていたラーメン店で飢えをしのいだ。二男はサークルの先輩の家で夜明かし。ダンナさんは会社で、備蓄のカップ麺を食べて。しておくものですね、備蓄。

しばらくは、出かけるときは小さなペットボトルとカロリーメイトを携帯だね。

電気は夜中のうちに復旧し、昨日になって初めてTVをちゃんと見た。
言葉もないし、知り合いでも連絡の取れない人がいることを知って、ただ祈るしかない。
緊急地震速報がつぎつぎに入り、多くはかなり確実にちゃんと(?)揺れる。すごいシステム。
地震のこわさというのは、心理的な側面から言うと、揺れ始めたときにはどれくらい揺れるか予想がつかないところ。そして残酷なのは、一番被害の大きかった地域が、一番ひんぱんに余震に苦しめられること。日々、緊急地震速報を見ながら、(たいして揺れはしないんだけど)そのことを実感している。(それにしても本震、マグニチュード9だったとは。だれも想像したことのない規模だったのではないだろうか。あまりにもおそろしい。)

茨城はここよりずっとひどくて、だんなさんの実家も家の中が大変だとのこと。親戚には避難所にいるという人たちもいて、心配しています。手伝いにも行けず、何もできずにもうしわけないのだけれど。

……そんなわけで、比較的快適な生活をしながらも、朝起きると体がガチガチになっているんだけど、ストレッチして、ゆるゆる体操をして、しっかり食べて寝て、できることからしていくしかない。先週は4月刊の本のあとがきを書いたり、確定申告をしたりで母のところにもしばらく行けなかったので、今日は行くつもり。わたしが行けないときに頻繁に足を運んでくれた妹は、来週は地震対応(日本生協勤務)で忙しいようなので、こんどはわたしがちゃんとしないとね。

みんなで励ましあいながらがんばろう。

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2011年3月 2日 (水)

夫婦

2月いっぱいで夜の出勤が水木金から木曜日だけになり、今日は1年3か月ぶりに仕事のない水曜日の夜を満喫(?)しているところ。

4月からは木曜日だけ昼間に出勤して別のところで教える予定。忙しいだのなんだの言っておいてけっきょく自分の首締めてるじゃんと思ったそこのあなた……正解です! なんだか不思議な流れに乗ってしまって、自分でも思いもよらなかったオファーをいただいたので、一度は断ったものの最終的に、えーい、ドボーンと飛びこむことにした次第。4月、5月になって、恥ずかしくない程度にきりもりできるようになったらまたご報告します。

そんなこんなで今は、家のなかをちょっぴり片づけ、昨年からかかわっている翻訳のラストスパートに励み、べつの本のあとがきを考えつつ、ちらちらと横目で野球を見ているところ(こらこら!)

4月からは三男が中3で、それも夜の仕事に区切りをつけた大きな要因のひとつなのだけれど、その彼は、自分で選んでマンションの前の小さな塾に通いはじめた。期末テスト前はいきなり朝10時から夕方5時まで塾で自習とか。今までの勉強しなすぎる生活からいきなりの大転換だけど、知恵熱出さずに持ちこたえられるのかな。(といいつつ、今日はお休みして東京ドームにオープン戦を見に行っている。沢村vs大石、菊地雄星ですからね。いいな。)

母はお陰さまで顔色もぐっとよくなり、月2回往診してくださる病院の先生も、胸の音がきれいになってずいぶんよくなったと太鼓判を押してくれた。トイレも自力で行けるし、食事もしっかり食べられる。

とはいえ、起きあがって何かをするのはまだ疲れるらしく、1日の大半を横になって過ごす。退屈で早く家に帰りたいらしいけれども、父とふたりでの生活に戻れるのかどうか。かなりの悩みどころ。父も、だれもいないがらんとした家は寂しいらしいけど、母が帰ってきて面倒を見ながら暮らす自信もない模様。そのせいかどうか、母に4通、5通とマメに手紙を書いている。母はときどき声をあげて笑ったりしながらそれを読む。万年筆の太々とした文字でつづった便せんが3、4枚の、けっこうみっちりとした手紙。たとえばわたしとうちのだんなさんが同じ立場に立ったとしたら、まちがいなくメールでやりとりするか、わたしがブログを書いてそれを彼が読むということになるんだろうけど(笑)、肉筆の手紙にはメールにはない手触りがあって、なんかすごいなと思わされた。しかもわたしが子どものころには、ぜんぜん仲のよくない夫婦だったのですよ。横暴な父とひたすら耐える母。わたしは自分の家がぜんぜん居心地よくなかった。それでも今、母はホームでなんの不自由もない生活をしながら、ひたすら家に帰りたがっている。

夫婦ってそんなものだよ、なんて軽々しく言いたくはないんだけど、でもやっぱりそんなものなのかもしれない。

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2011年2月 6日 (日)

大晦日 ――うどんとツイッターとベートーヴェン――

もう1ヶ月以上すぎてしまったけれども、大晦日の話を少し。

母の見舞いを妹に託して、31日から2日まで茨城に帰省した。

Udon

ごちそうはおじいちゃんの手打ちうどん(おいしかった!)。

Wiife

おばあちゃんは雑誌への投稿で賞を獲得(このことについてはまた稿をあらためて)……。

ひたすら忙しい1年だった。年末もクリスマス前まで冬期講習があり、そのあとは病院通い。そんな中で、ほんとうに久しぶりにほっとできるオアシスのようなひとときだった。

夜はなんとなくいつもの習慣で紅白歌合戦をちら見していたのだけど、二男が「ユーストリームでベートーヴェンの交響曲全曲演奏会(ロリン・マゼール指揮)を中継している」と教えてくれたので、そちらにも参戦。大好きな7番の第2楽章にはホントにしびれた。ベートーヴェンはやはりすばらしい。ケレン味たっぷりのマゼールの指揮もすごかった。パソコンを通じて聴いていてもスタンディングオベーションをしたくなるほど盛りあがる。

するとツイッターのタイムラインで、やまねこ翻訳クラブの友人Oさんも同じ演奏の感想を書きこんでいることに気がついた。うしろでは二男がもう一台のパソコンでやはりベートーヴェンを聴いている。TVには紅白歌合戦。究極のながら族(笑)

ツイッターは、フェイスブックとと共に今の中東の民衆運動のきっかけを作ったメディアだし、「王さまの耳はロバの耳」そのままに、何の気なしにつぶやいたことがあっという間に広まって大問題になったりする事件もちょくちょくあるようだけど、うまく使えば遠く離れた人と、同じ体験を共有するという離れ業もできるのだ。
ベートーヴェン7番のあとは、9番合唱つき。うしろの二男とはジェスチャーで、遠くのOさんとはツィッターで感想を交換しながらとっくりと鑑賞。楽しかった。 

嵐のような1年を締めくくるにふさわしい、ほっとして、不思議で、楽しい一夜でした。

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新たな気持ちで

あまりにも間があいてしまったので、新規まき直しということでデザインも少し変更してみました。

気がつけば2011年も1月はすでに去り、早くも2月。早すぎるよ。

昨年は、1月に母が骨折、入院し、わたし自身も新たな仕事を始めたばかりだったので、春先まではまさにアップアップ状態。それでもどうにか新しいパターンが定着して、よろよろしながらもなんとか切りぬけた1年でした。

そしたら年末、12月27日に今度は母が肺炎で入院。
ひと月ほど前からずいぶんセキをしていたので、気にして11月中頃に近所の医院へ連れて行ったのだけれど、そのときはわからなかった。
無熱性肺炎ということで、高齢者の場合、熱がなくても肺炎にかかっていることは珍しくないらしい。レントゲンでは右の肺がまっ白に映り、水もたまっていて、しかも年末で詳しい細菌の検査ができない時期だったので、医師からは「できるだけのことはしますが、かなり厳しいかもしれません」と告げられた。

それでも切りぬけるのがうちの母のすごさ。3日ほどで水を飲むことを許されるようになり、新年には食欲も戻って、「1月の2週目をめどに退院を目ざしましょう」と言われるまでになった。

じつは1月5日には、父がそけいヘルニアの手術を受けて、短い期間ながら別の病院に入院していたし、昨年持ち込みが通った児童書もちょうどゲラが出たところだったので、年末から年始にかけての3週間ほどは、自分でも何をやっていたのかよくおぼえてません(^_^;; とにかく気休めにゲラを抱えて持ち歩きながらあっちへこっちへと飛びまわっておりました。

そして父はひとあし先に退院して自宅へ。母も1月15日に退院が決まったものの、体重24キロとますますちっちゃくなり、トイレに立つのもおぼつかない状態だったので、妹とふたりであちこちあたって、とりあえず東武沿線にあるSアミーユという老人ホームに短期入所してもらうことに。

一時金が数十万~ときには数百万かかるホームが多い中で、アミーユ系列は一時金なし、月額いくらの支払いなので比較的利用しやすく人気があるらしい。たまたま妹の駅から2駅、うちからも40分ほどで行けるところに空室があり、超特急で手続きをしてもらえたので非常にラッキーだった。始めの一週間、母は毎日のように「明日にでも帰りたい」と訴えてきたけれど、好きな本を届け、枕元用のランプを買い、少しずつ生活を整えていくうちに気持ちも落ちついてきたようで、今は「もう少し体力がつくまで」と、ほぼ納得してくれている。

トイレも介護士さんのヘルプなしで一人で行けるようになったし、何より基本的にほがらかだし、いろいろ感服させられることが多い。

試験休みに入った長男がたびたび訪問してくれるのもありがたい。
母は記憶力はかなりちゃんとしていて、きのう話した内容なども普通におぼえているのだけれど、なぜか顔と名前の短期記憶がやられていて(あ、わたしもか(笑))3人の孫の見分けがどうしてもつかないらしい。「だから毎回自己紹介から始める」と長男。戦争の話やら新聞社勤務時代の話などを、心からおもしろがってきいて帰ってくるようなので、おばあちゃんもさぞうれしいことだろうと思う。

というわけで簡単な近況でした。このあとエントリを分けて、もう少し追加します。

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2010年10月 3日 (日)

ページをめくる

二男のじんましんはどうにか収まったもよう。まだ、毎朝ようすを見て「きょうも大丈夫かな、よかったね」と、どこか警戒心を解けずにはいるのだけれど。
けっきょく原因はわからず。(たぶんモロヘイヤではない。)
最初は汗をかく部分に発症したので、その刺激がきっかけで、演奏会間近の疲れなどもあわさってのことだったのかもしれない。前回ブログを書いてから総合病院の皮膚科に行って、注射と副腎皮質ホルモン剤(ブレドニン)の処方を受け、27、28、29と3日間飲んだらだいぶましになった。30日は演奏会の日で、朝はちゃんと飲んだのに、なんと昼と夜の分を忘れて行ってしまった。おいおいと思いつつ心配していたが、その夜も朝も無事(?)に過ごし、けっきょく少しハラハラしながらもそのあと薬は飲まないまま。このまま収まってくれるといいんだけど。
今回皮膚科の先生に言われてはじめて知ったことがいくつかあった。
1)じんましんに塗り薬はきかない。――ひぇー、どうりでいくら塗ってもましにならないわけだ。
2)同じ薬を飲んでも、処方がだめだときかない。――当たり前なのかもしれないけど、どうせ内科でも薬をもらえるからいいや、というあまい考えがわたしにはあった。ブレドニンは近所の内科でもらって飲んだときにはちっともきかなかったのに、皮膚科で「朝に多く飲んだ方がきく」と説明を受けて「朝3、昼1、夜1」というペースで飲んだら3日でよくなった。やはりそれぞれの専門医にこまめに行かないとダメですね。
そんなわけで少しホッとしつつ、一昨日ときのうは、三男の野球部の新人戦。
昨年はとても強くて県大まで行ったわけだけれど、今年は、メンバーのケガが重なったりしたこともあって、ピッチャーとしてフルに投げられるのが三男だけという状態。ただ、メンバーは少年野球のころのチームメートと、その下の代のとても強かった子たちが中心で、なかなかバランスの取れたいいメンツなのです。
1日金曜日は、三男が先発。ランナーを出しながらもバックの好守備で抑え、4回ウラに1点先制。

その後6回表に同点においつかれたものの、つぎの7回表をがんばって三者凡退に抑えると、そのウラにチャンスがめぐってきて、最後は少年野球時代からの仲間が放ったライナーを相手ライトがはじいてサヨナラ! 競った試合に投げ勝って、1回戦を突破した。よかった~。
わたしは夜の出勤日だったので、いったん帰宅し、三男にヨーグルトを飲ませ(運動後2時間以内のカルシウム!)アイシングをしてからばたばたと出勤した。
きのう、2日(土)は、10時すぎから試合。勝てばダブルヘッダーになる。
あやうく寝すごしそうになって、お弁当は間に合わず(^_^;; あとから届けることに。
この日もまた先発。少年野球のころは、わたしはスコアラーをしていたので、ある意味、気がまぎれるというか、あまり緊張しないですんだのだけれど、観客としてただ見ていると、試合開始前にみょーな緊張感があっていやなものです。
でも立ちあがりに乱れたりすることもなく、この日もまた投手戦。
相手は同じ市内の中学で、投手は少年野球時代にさんざんやられた打てそうで打てない左腕投手。しかも監督は、去年までうちの顧問だった先生。勝手知ったる……の極致です(^_^;;
でもって、相手監督いろいろ揺さぶりをかけてくるのですよ(笑)。三男の投球モーションにボークの疑いありとクレームをつけたり。しかし三男も小学校時代からくせ者的なところがあって、ボークのクレームにも慣れっこなので、そんなことには動じず、6回途中までノーヒットに抑える。
しかしこちらも点がとれず、ついに6回、三男の出したフォアボールを足がかりに、ポテンヒットふたつで3点をうばわれてしまった。なおもツーアウト満塁。
4、5年生のころ、こういう状況でよく泣いたり、キレてやる気がなくなったりしていたなあと思いながら見ていたら、やおらタイムをかけた三男、何をするかと思いきや、マウンドの上でいきなりユニフォームのベルトをはずしてチャックをあけ(笑)、着崩れたユニフォームを直し始めた。図太いやっちゃ~。そしてつぎのバッターをどうにかショートフライに打ち取り、最終回に望みをつなぐ。しかし、四球のランナーひとりを出したのみであえなく終了。2回戦敗退でした。
終わってから、くやしくて泣きじゃくる子たちがたくさん。うんうん。でも、泣いただけですっきりしちゃわずに、つぎまたがんばれ~。校長先生も野球好きなのか、1、2戦ともフルに観戦してくれて、「勝敗以上にたいせつなことをいろいろ学んだでしょう」と声をかけてくれた。
中学の試合というのは、審判も全部先生たちがかわりばんこにやるので、日曜日の試合でも実は「こりゃーどうみてもファウルでしょう」(打球がバッターの足に当たっていた)というのが見逃されたり、アウトじゃないのにアウトになっちゃったり、という場面が再三あった。それはまあ不条理とも言えるのだけど、最近、メジャーリーグの試合も見るようになって、そういう不条理はどれだけ上のレベルまで行ってもなくなりはしないんだとよーくわかった。
完全試合目前の9回2死で、内野ゴロをヒットと判定された投手(タイガースのガララーガ)もいましたねえ。翌日、審判が「ビデオで見たらゴロだった。誤審でした」と涙ながらに謝り、ガララーガが「人間のやることだからしょうがないよ」と許して、一種の美談になったけれども、まあ、度量が大きいともいえるし取り返しがつかないともいえるし。
で、8月からオリオールズの監督に就任したバック・ショウォルターがたびたび口にするのが"Turn the page." ということ。いいときも、悪いときも「ページをめくって」また次に進んでいけ、過去にこだわるなと。野球というゲームでは、エラーがあったり、審判の誤審があったり、いろいろとアンラッキーなことが生じる。でも、それを取り返す機会もまた同じくらいたくさんある。だから悔いに打ちのめされていないで、次のチャンスをしっかりつかめばいいのだ、と。
月並みといえば月並みなことかもしれないけれど、日々戦いの中に身を置く人から出ることばは重い。オリオールズは、今年、7月末までは100敗を優に越えそうなペースですすんでいたのだけれど、8月3日にバック・ショウォルターが就任してから8、9、10月とすべて勝ち越して、ついに「8月以降に就任して、その年の就任前の勝ち星を上回った初の監督(1900年以降)」という歴史を作った。すごくないですか? わたし、あまり今まで監督のファンというものになったことがないのだけれど、バック・ショウォルターのことはすごく気に入って、毎日コメントを読むのが楽しみなのです(笑)。
えー、そんなわけで息子たちも「ページをめくって」また新たにがんばってほしいなと思った次第。
(で、わたしはといえば、もっと本のページをめくらないとなあと思っている今日このごろなのでした。)

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2010年9月24日 (金)

This and That (あれやこれや)

おとといツクツクボウシが鳴いていたと思ったら、今朝は窓をあけて「さぶっ!」とつぶやく気温の低さ。体調管理がむずかしい今日このごろです。

前回のエントリから50日ぶり……ひどいな。でも、あきらめたわけではないので、ほそぼそと、それこそ「オン&オフ」で更新していこうと思います。

9月に入り、また週3出勤のペースが戻ってきて少しほっとしているところ。ずーっとかかえていた児童書を訳了していったん手ばなし、今は同じくずーっとかかえているもうひとつの本(共同作業)にもどって少しでも先に進めるべくがんばっているところ。

ところがそんな矢先、ずっと不調だったノートパソコンがいよいよ挙動不審になりまして、まず本体のキーボードが反応しなくなった。(なのにときどき一部のキーが押されっぱなし状態になり、さわってもいないのに「bbbbbbbb」なんて入力されつづけたりする。)

しかたなく、家にあった〈Realforce〉(←ブランド名)のキーボードをノートパソコンにつないでしのいでいたのだけれど、こんどはその外部キーボードも認識しなくなった。それできのう、おとうさんと近所のPCショップにパソコンを見に行ったりしたら、今朝はまたキーボードが使えるようになっていた(笑)。なので、その貴重な時間で今ブログを書いているのですが、だったら仕事せいって感じですね。ただ、そんな具合にキーボードもしょっちゅう「ついたりきえたり(オン&オフだ)するので、やはり新しいパソコンは買うつもり。仕事のことを考えると、修理に出して2週間パソコンのない生活を……というわけにはいかないのがつらいところ。

夏に左腕を骨折した三男は、もうピッチングもバッティングもスライディングもフルにこなしている。でもこのあいだ久しぶりに練習試合を見に行ったら、打つときはまだ少し痛そうにしていた。骨折した箇所(親指側)が痛いのではなく、反対の小指側の関節に何やら負担がかかって痛むらしい。やはりそう簡単にすべてがすっきり治るわけではないのですね。もう少し時間が必要。ときどき思いついたらマッサージをしたりしている。

そんななか、一昨日から二男が全身のじんましんでダウン。近所のお医者さんで抗ヒスタミン剤と塗り薬(リンデロンVG)をもらって、いったんは劇的に改善したのだけれど、今朝になったらまたひどくなっていた。

考えてみると、最初の発疹は手や脚の関節という汗をかきやすい場所だったので、それがきっかけなのかもしれないけれど、ひどくなる前日の夜は、いずれもみそ汁やスープにモロヘイヤの葉っぱをちょっと入れていたのでした。家族ではほかにだれも発症していないけれども、ネットで見ると中にはモロヘイヤでじんましんになる人もいるようなので、ひょっとしたらそのせい?(確証はありませんが。)

そもそも、モロヘイヤってこれまであまり使ったことはなかったのだが、天候不順のせいか葉物がみんな高いので、少し安くてミネラル豊富なモロヘイヤに目をつけたのでした。三男の骨折以来、この牛乳嫌いの野球少年にカルシウムを取らせるにはどうすればいいか、というのがひとつの至上命題になっているので……。

ちなみに三男の今朝のメニューは、桜エビ、モロヘイヤ、チーズ、ご飯少々を溶き卵といっしょにぐるぐるかきまぜて焼いたなんちゃってお好み焼き+ヨーグルトドリンク。カルシウムだらけ(笑)。でも、確証はないまでもモロヘイヤでじんましんを起こしたかもしれない人がいるとなると、つぎもまた小松菜の代わりに買おうというふうにはならないなあ……。ごめんよ、モロヘイヤ。

ああ、しかし、今年はおばあちゃんに始まって医者通い、病院通いの多いこと。じんましん、おさまりますように。

えーと、なんだかぐだぐだと雑談のようになっておりますが、もうひとつ。
9月に入ってから日曜日に小学校英語指導者の養成セミナーに通っている。
小学校英語に関しては、小学校英語指導者認定協議会 (J-SHINE)という非営利法人があって、一定のトレーニングと実務を経ると資格認定を受けることができる。(くわしくはこちら

実際にトレーニングを行うのは民間の英語学校で、中には通信教育もあるのだが、わたしは、今、現に手探りで行っている英語の授業のヒントがほしかったこともあり、渋谷にある(でも駅は新宿)mpiという英語教室のセミナーに通っている。
9月の日曜日3回にわたり、朝9時から夜6時まで。ハードだけれど、実技たっぷりだし、教わる場面、教える場面、どちらも体験できて、すごく中身が濃い。ほかの受講生の人たちとも仲よくなったし。
3回教わってすぐにそのまま教室でいかせるわけではないけれど、やはりコアになる英語の文をたくさんインプットしないとだめだな、とあらためて感じたので、いろんなところで少しずつ見直しつつあれこれ工夫中。プラス、三男には毎日10問ずつ英作文やらせている(笑)。

まあ、だからすぐにどう、ということではないのだけれど。何ごとも根気が大切、ということで。

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2010年8月 6日 (金)

ジブリの本棚

死のロード前半をどうにか乗り越え、しばし本職に復帰中。うー、眠い眠いいくら寝ても寝足りない。これはあきまへん。どうにかしないと。

そうそう、DL入りした三男は、もうギプスしておりません。2週間足らずで取れちゃいました。いいのか?!

いえね、三年生のころ、左ひじの骨頭が血行不良(?)のため壊死する「パナー病(*)」というのをやったことがありまして、これは骨折やなにかではなく骨端がもろくなってすり減る病気なので、定期的にレントゲンを撮って、あとは無理せずにじっと待つしかなかった。ちょうど一番野球が面白くてしょうがない盛りだったのだが、整形外科の先生は「まだ運動は無理ですね」というばかりだったので、自分であれこれ調べて判断しながら、先生にはナイショで(^_^;; 少しずつ復帰していった。で、いよいよ先生から「もう大丈夫ですよ」とお墨付きをいただいたときにはもうフルに始めていたので、親子で「わぁ、ありがとうございます」とウソ喜びしたのだった。
(*パナー病:かなりまれだが、10歳前後の男児に好発し、多くは利き腕と反対側に起こる。したがって、オーバーユースが原因ではなく、骨の毛細血管の未発達のせいか何からしいが、くわしい原因は不明らしい。特に治療法はなく、血行促進に気をつけて1年ほど待つしかない。三男はバットは1年間持たず、他に学校の跳び箱や鉄棒などもやらなかった。)

まあ、そんな前科があったので、整形に通いながら先生の目を盗んでやるよりは、スポーツにくわしい接骨院の先生に行った方がいいかなと思い、整復が終わって2回ほど通ったのち、整形の先生に「このあとは接骨院に行きます」と伝えて(看護婦さんに「まだこれからレントゲンをとってギブスをするのに!」とすごくびっくりされた)、転院した。

ところがこの接骨院の先生が、また極端に血行促進派(?)でして、子どもは化骨の形成が早いし、化骨ができれば強度は90%ぐらい戻るので、あとは日常生活で動かしたほうがカルシウムの吸収も早い、と、2週間弱で補強剤をはずすことに。けっきょく本格的に石膏で固めるギプスはせずに終わった。

で、別れのことばが「ころぶなよ」――って、先生、ほんとにだいじょぶなんですかー?(苦笑)
しかもなにげに紅白戦に出場したりしている三男。
まあ、『傷はぜったい消毒するな』(夏井陸 光文社新書)と同じで、多くのことは真の必要性ではなく、慣れとか慣習とか気持ちの上での安心感のせいで行われているのかもね……。
どうかころびませんように。

さて、そんなこんなであまり夏休みらしいとはいえない日々のなか、ひとつちょっぴりうれしい知らせが届いた。昨年完結した『ラング世界童話集』(東京創元社)が、BS日テレの『ジブリの本棚』という番組で紹介されるらしい。なんでも宮崎駿さんがラング童話集12巻を抱えて登場するのだとか(あくまで噂)。
放送予定はつぎの通り。
8/7(土)19:00~20:54
8/28(土)13:00~14:54[再]

ラングは、たいへんながらとても楽しい仕事だったし、似たような話が多かったり、冗長だったりする部分もありつつ、おっとびっくりするような話もつまっている、宝箱のような童話集だ。もっと注目されてほしいなという気持ちが強かったので、これをきっかけにせめて図書館などでそろえてくれるようになればうれしいかぎり。

もしもBS日テレをご覧になれるようでしたら、ちょっとのぞいてみてください。

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2010年7月17日 (土)

DL入り(涙)

県大会、やはりほぼ全面的に仕事と重なっていたsweat02
2回勝ってくれれば、第3戦には行けそうなんだけど……

と思っていたら、今日、3時ごろ中学の保健の先生から電話。
う、熱でも出したか、と思ったら「部活中に手をついて、変な方向に曲がってしまった」とのこと(汗)。
顧問の先生とふたりで整形外科に連れていってくださるというので、あわてて保険証と診察券とお財布を持ってかけつけた。

見ると、レントゲンを撮るまでもなく、ひと目で「折れてるね」とわかる状態で、本人は痛さとくやしさと情けなさでsweat02sweat02。けっきょく左手の手首近くの骨が、きれいに(?)折れていた。麻酔をして骨をついでもらい、固定してもらって帰宅。

出勤前でよかったとか、早出の日でなくてよかったとか、長男が早く帰ってくれる日でよかったとか、いろいろなラッキーに感謝しつつ、ざっと体をふいてやり、バタバタと食事をならべて仕事へ。まったくひと騒動であります。

上のふたりのときには、ほとんど通ったことのなかった整形外科、接骨院に何度もお世話になる三男。行動パターンが違うと、こういうところにも違いが出るんだなあ。

それにしても、来週から県大だっていうのに、無念のDL(故障者リスト)入り。
まあ、まだ2年生だからね。来年、自力で出るっきゃない。
そして、今年はスタンドから精一杯応援しないと。

わたしも明日から5日間はお休みなので、けが人の面倒を見つつ、少し家の中の体勢をたてなおそう。(あっ、家庭訪問もあるんだった! ひぇー。)

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2010年6月15日 (火)

県大ふたたび

先週10(木)、11(金)、12(土)は、中学の各運動部の地区大会。(ここは東入間大会といって、ふじみ野、富士見、三芳町の学校が含まれる。) 三年生にとっては最後の大会で、負けたらその瞬間に部活は終了。勝てば、もう少し先まで受験勉強はおあずけとなる。

うちは2年生だけれど、いちおう背番号をもらってベンチ入り。3年生は、少年野球のときからずっといっしょにやってきた子たちなので、わたしも応援に行くことにした。

夜のお仕事が水、木、金なので、ほぼかぶっていて、木曜日は応援後そのまま出勤。
勝ったので金曜日はまずカレーを途中まで作ってから応援に行き、いったん戻ってルーをぶちこんでから仕事へ。夜11時半帰宅。
そして土曜日は5時半に起きて息子にご飯を食べさせて送り出し、自分も8時半にママ友の車で会場へ。

自分でも何やってんだか、という気もしなくはないけれど、でもやっぱり行ってよかった。
めちゃめちゃ暑くて、ここ最近でもいちばん疲れたけれど、みごと4戦全勝で地区優勝!
県大へ駒を進めることができた。パチパチパチshinecrownshine

バッテリーが強力で、昨年の新人戦でも県大に行ったチームである。
でも、なにしろ中学生。新人戦優勝のあとすっかり気がゆるんで、春の最初の大会では1回戦負けしてしまった。
それが逆によかったんだろうな。みんな昨年秋よりバットが振れて、ものすごく点を取れるようになっているし、二番手投手の安定感も増して、さらに強いチームに生まれ変わっていた。
そこへもってきて、三男の親友の2年生で、野球部に籍を置きながらもシニアでの硬式野球をメインにやっていたYくんが、シニアをやめて野球部に“FA”したのも大きかった。
Yくん、準決勝では2ランランニングHR! シニアの猛特訓はダテじゃなかったんだろうなと思わせるすごい打球だった。

三男は、打つ方ではあまり貢献できなかったけれども、セカンドでほぼフル出場させてもらっていた。守備機会も少なめだったけど、見ていると、投球のコースごとに守備位置を微妙に変えたり、外野フライが飛ぶとすかさず外野手に指示を出したりしていたので、そういうところが買われているのかな。
あと、打順を待つとき、先輩に向かって「オレに回してね!」と声をかけたり(^_^;;
ほんとに何様?(笑) 聞いていたママたち、みんな大爆笑だった。

というわけで三年生の引退は延び、期末試験をはさんで、いつだかわからないけど県大が行われるもよう。
でも夏休みの最初って、わたし、夏期講習というものが……。
重ならないでほしいなあ。ここまできたら最後までちゃんと応援に行きたいよ。
(三男には「来なくていいよ」といわれたけど「あんたのためじゃなくて、わたしが行きたいの! 三年生の応援に行くんだから」といっておいた。最近、めっきりかわいくない三男である。)

優勝した日の夜には、野球部仲間と近所の温泉でくつろぎ(おやじか?)、その翌日には顧問の先生のおごりでバイキングを満喫してきた三男。きのうはサッカーを見ると意気込みながらけっきょく途中で寝てしまい、わたしひとりが夜中にカメルーンの猛攻に耐えながら最後まで観戦した。

要するに、シアワセな息子と酔狂な母親っていうことなんですね。

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2010年6月 1日 (火)

6月だ-!

ひゃー、という感じですね。6月。1年の折り返し地点。夏至が来ちゃうよ、夏至が。焦るなぁ……。

あいかわらずあわただしい日々であります。特に今週末はすごかったし、濃かった。

5月28日(金)
お仕事。夜11時半帰宅。

29日(土)
朝~午後:中学の運動会
三男は学年種目とリレーに出場。
学年種目では、お父さんとふたり、三男のクラスのあたりをいくらさがしても、姿が発見できない。「いないんじゃないの?」という疑念がふつふつ。昼休みに担任の先生に用があったのでクラス席近くまで行って気がついた。無意識にクラスの中でもいちばん小さい姿をさがしていたのだが、もうそんなに小さくもなく、ごく平均的な背格好の中2男子になっていたのだ。ふふん。

リレーでは、バトンをもらってから少し追いあげたものの、大混戦だったのでまえの走者を抜けず。しかもバトンを渡した第三走者がころんで、けっきょく最下位に。ざんねん。

そしてもう一つの全校種目「大縄」でおもしろいことが。これはクラス単位で跳ぶのだけど、昨年、3年生のあるクラスで「147回」という大記録が出た。上の子たちのときには百回を越えたのなんて見たことがなかったので(1年生だと、ほんとうに10回続けるのも大変なくらい)、不滅の大記録なんだろうと思っていたら、なんと今年は3つのクラスが150回を越え、最高は250回! 2位のクラスも207回。どちらも縄をゆるーーーく回して、体力を消耗しないよう、タイミングをはかって「またぐ」跳び方。なるほどね、頭を使うんだねと思っていたく感心したのだが、あとから息子に聞くと「あれは縄跳びじゃなくて“縄越し”だ」という。現場では論争があり、規制も検討されているらしい(笑) またまた、なるほどねえ。あらゆるスポーツと同じような発展の道をたどってるじゃないか。ちなみに息子のクラスは16回でした(苦笑)。

29日(土) 夜:やまねこオフ
新宿にて、児童書翻訳者の人たちとお食事。今、翻訳出版は全般的に苦しいのだが、児童書翻訳はたぶんそれが凝縮された形になっていて、ほんとにほんとに『ゲゲゲの女房』を地でいくような話が山盛り。「それじゃあ冨田書房だよ!」(ハハハ……)とか「あの持ち込んでは行く先々で断られる場面は身につまされるよねー」とか。それでもみなさん、地道にがんばっておられます。

今わたしは、水木金の仕事のあと翻訳をすると「楽しい」という気持ちしかわいてこないので「翻訳がいちばん楽しい」と言ったら、シゲさんのようにほんとに机に張りついてぐわ~っと仕事をしているプロ中のプロのTさんに「ほんとですか?」と言われた。うぐっ……考えてみるとわたしの仕事の仕方って、プロというよりアマチュアに近いのかも。ほんとに一日中朝から晩まで翻訳の仕事してたら、楽しいどころじゃないかも。(そういう時期もあって、たしかにそのときは苦しかった。)
といろいろ反省しつつ、質だけはぜったい落とさないようにがんばろうとせめてもの誓いを胸にきざむのでした……。

30日(日)
母校、上智大学で英語学科の催しがあり、「小学校英語」についての講演が行われたので、行ってきた。いや、朝起きたら思いっきり体がバリバリで(そりゃそうだ)、とても出かけられないと思ったのだけど、長男をバイトに送りだしたりしているうちに元気になってきたので、えいやっと行ってしまったのだ。

行ってよかった。今、木曜日に6年生を教えているのだけど、ポンと教科書をもらってあとは毎回毎回手探りの試行錯誤。子どもたちはそれなりに喜んでくれているのだが、何を目指せばいいのか、今イチ見えてなかった。でも、恩師であり英語教育界の第一人者でもある吉田健作先生や、ほかのパネラーの方々の話を聞くうちに、とにもかくにも6年生には、「英語を話せた!」という成功体験や、「こういうとき、なんて言えばいいんだろう?」という好奇心をたくさん味わわせてあげることが大切なんだなと思えてきた。わたしがいるのは塾だからもちろん単語の書き取りもやらせなきゃいけないんだけど、でも、それでできない子にも苦手意識だけを与えるのじゃなく、なんとか楽しさも体験してほしいな、と。

それにしても来年からの小学校英語の導入は、まさに見切り発車の世界。どうなるんだろう。今、J-Shine:小学校英語指導者認定協議会というのが立ちあがっていて、吉田先生もからんでいる。以前から興味があってちらちら眺めていたのだが、講演を聴いて、やっぱり資格を取りたいなあと思うようになった。

翻訳がんばります、とかいいながら、わたしってヘン? なんかこの年になってやたらあちこちに興味が広がってきて自分でもこまってるんですけど(笑)
(あと、ランニングの本を下訳していて知った「アレクサンダー・テクニーク」wikiというのにも今惹かれていて、講習受けてみたいな~なんて思っているし。)

31日(月)
キャッチアップ……といきたいところなのだけど、実家のお風呂の手すりの工事。しばらく行ってなかったし。お風呂自体はずいぶん老朽化しているのだが、がっちりした手すりを4本つけてもらって、だいぶよくなった。母も、歩行器を使えば家の中では自由に動きまわれる感じ。ただ、外には一歩も出ていなくて、父も「へんに欲が出たらこまる」とか言って、出す気なし。いいのかそれで、とも思うけれど。(わたしがいるときならいっしょに出られるよ?とも提案したけど、却下された^_^;;)

そして6月。あ、もうそろそろお昼でないの。日記書いてる場合ではないよね。仕事しよっと。楽しい翻訳の時間です。(だからー!)

【追記】つい星占いなぞを……(最近、わたし回りで評判の方ですよね?)
http://st.sakura.ne.jp/~iyukari/week/100531scorpio_w.html さそり座の今週
ううむ、やけにドンぴしゃな。こわいくらいな。もう突き進むしかないか。
(もっとも、うち、三男以外はみんなさそり座なので、必ずしもみんながみんな、というわけではないと思いますが。のんきなさそり座~長男~もいるし(^_^;;)

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2010年5月13日 (木)

コメント公開設定をしばらく変更します

ふー、5月もなかば。GWは、三男が風邪をひいたり、わたしも咳がぶりかえしたり、おとうさんが出張したりしていたこともあって、これまで経験がないほど地味~に、お天気がいいのにたいしてどこにも出かけずにすごしました。でもまあ、それもよかったかな。

ほんとうはもう少し本業のほうをキャッチアップしたかったんだけど、思ったほどには進まなかった……。

季節もよくなってきて、洗濯もよく乾くし、咳もようやく治ってきたし、よーし、という気持ちではあるのだけれど、とにかく眠い。そして忙しい。ハッと気がついたら週の後半になっております。

うーむ。考えどきか……。悩む日々。

それはそうと、このごろスパムがしつこいので、当分のあいだいただいたコメントを一時保留して、承認してから公開という流れにしたいと思います。ごめんどうをおかけしますがよろしくお願いします。

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2010年4月19日 (月)

近況その2

下のエントリで生活のほうの近況報告をしたので、翻訳仕事のほうの近況報告も。

4月に入って、翻訳のお手伝いをした本が2冊出版されております。

ミスターミッドナイト (Mr.MIDNIGHT) (Mr.MIDNIGHT 1)

Midnight

『ミスターミッドナイト』のほうは、今はやりの、廉価で手に取りやすい児童向けエンタメ本。ただ、大流行のアニメ風イラストではなく、高畠那生さんのイラストというのがイキでおしゃれ。ストーリーと雰囲気をどんぴしゃに伝えていて、やはり一流の画家さんなのだなと感じ入った次第です。
わたしはお話2編のうちの「恐怖のスクールバス」を担当。上訳者であるきむらゆういちさんの手で磨かれたものを読んだら、主人公とマドンナ的存在である女の子との関係が原作よりきれいにくっきり浮かびあがっていたので感心してしまいました。

『まだ科学で解けない13の謎』は、科学のさまざまな分野――宇宙論、素粒子論(なのか?)、生物学、医学――のまだ解かれない謎をくわしく、かつわかりやすく紹介した本。同時に、科学の発展において、まず謎が見出され、「そんなはずはない!」「思い違いだ!」と排斥されながらもやはり謎として居座り、やがて人々が謎の存在を認めて真摯に解明に取り組むうちに、思いもかけぬ解明法が発見されて科学革命が起こるという大きなプロセスについても考えさせてくれる本。
わたしは1970年代に打ち上げられてもはや通信も途絶している宇宙船パイオニア号が、とある理由で未だに人々の関心を集め続けているという第2章「パイオニア変則事象」をはじめ、「物理定数の不定」(いやー、難しかったですよ、この章。)、「常温核融合」(おもしろかった!)、「自由意志」(早稲田の図書館から参考図書を借りてきてもらった。学費を取り返せ?!)そして「エピローグ」を下訳させていただきました。

ほかの章もみな興味深く、さらに装幀もよくて、いい本にしあがっておりますが、なんといっても、すぱっと明晰で、かつ熱くリズミカルにたたみかけてくる、訳者、楡井浩一氏のあとがきがすばらしくて、これを読めばこの本の主旨がすっきり理解できるとともに、むらむらと好奇心がかきたてられるので、本屋で見かけた方はぜひあとがきをご一読いただきたいと思います。

さて、現在はというと、この科学本で格闘したたいへんさと楽しささが忘れられず、ふたたびノンフィクションの共同作業に取り組み中。こんどはランニングに関する本で、これもなかなか面白いです。あ、去年の暮れにささやかなジョギングを始めたのもこの本の影響。読むと走りたくなるかもしれないです。

さらにもう1冊進めているのが、昨年秋ごろに持ち込みした児童書。
「科学本」「ミッドナイト」「アバター」が終わってぽっかり時間があいたときにポメラでレジュメを書いて持ち込んだ本の1冊で、その後、とある賞を受賞したために日本での出版が決まったのでした。

だからなんとしてもがんばらないと、という作品。もう、これはほんとうにいい本にしあげなくてはと、毎日気持ちだけが先走っております。

水木金が出勤で、まだ時間がうまいこと使えていないのが実情なんだけど、翻訳業の先人たちには翻訳学校で教えたり大学で教えたりしながら、ものすごい量の翻訳仕事をこなしてきた方が大勢いるのだから、わたしなんかまだまだひよっこだよなーという思いも強くあります。まあ、なんとかやりましょう。

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近況など。

えーとえーと、あまりにもあまりにもご無沙汰で、自分の日記(?)なのに久々に登校する子どものような気恥ずかしさを感じております。

まーとにかくせわしなくて、気がついたら4月なかばすぎ、と。

お陰さまで母は手術後順調に回復し、リハビリ病院でのひと月半を経て、3月末に退院いたしました。介護用ベッドを入れ、ケアマネさんを選定し、ちょっぴり手すりをとりつけ、山のように書類を書き……といったもろもろの手続きを経て、どうにか無事に歩行器で生活しております。

ありがたいのは、父が食事を作れる人であること。あの年代(大正13年生まれ)では珍しいと思うけれど、シベリア体験と、元来食べることが好きな人だということが大きく作用しているのだと思う。だからといって、けっして何ごとにも開かれた考えや志向を持っているというわけでもなく、母が家を空けることも好まなかったから、母はこれまで父を置いてひとりで外出したことなんてほとんどなかった。

だから入院中も母は、自分のことより父の心配ばかりしていて、せっかく気楽に病院ぐらしをしているのだから、もう少し上げ膳据え膳の毎日を楽しめば、と思うほどだったけれど、長年身についた習慣が変わるはずもないのだった。

退院したら、家の深いお風呂にひとりで入るのは危険なので、お風呂とリハビリをかねて週に2回はデイサービスに、と病院もケアマネさんも勧めてくれて、わたしはまるで保育園の見学に行くようにデイサービスの下見に行って契約もすっかり取り交わしたのだが、いざ退院してみたら、また知らない人たちのたくさんいるところに毎週出かけていくのはどうにも気が進まないということで、けっきょく施設にもケアマネさんにもおわびして契約を取り消してもらい、母は父とふたりの静かで閉ざされた暮らしに戻ってしまった。
「お風呂はどうするのよ?」ときいたら「このあいだ入ったわよ。あちこちにつかまりながらなんとかはいれた」というので(しかも父は付き添っていないらしい)、ひぇー、と天を仰いだのだが、家に帰ったらもう父と母があの家の主なのであって、周囲からどうこう口を挟む余地はないのだった。

わたし自身も退院した週とその翌週までは週に2回通っていたのだけれど、先週は忙しさにかまけてついに足を運ばず……いかんなあ。
4月から夜の仕事が水、木、金になってしまって、土曜日にはどうにもくたくたになってしまい、月火は翻訳のキャッチアップで必死なので、何とかもう少しリズムをうまくつくって、とは思っているのだけれど。でも今週末も土日ともに予定が入ってしまったのでどうなることか。夜の仕事はとりあえず今年いっぱいと目安をつけているので、なんとか風邪をひかずに日々を乗り切って、一日一日がんばっていこうと思います。

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2010年1月29日 (金)

ふるさと府中再発見のわけは

いやはや、なんだか久しぶりになってしまいましたが……。

お天気もよく、平穏なお正月を迎えたと思ったとたん、1月の第2週に母(90)が大腿骨骨頭を骨折するアクシデントがあって、以後、多忙な毎日になっております。

1月4日にみんなでお年始に行ったときには元気だったのだが、その3日後ぐらいにころんだらしく、しかもうちに電話がきたのは、さらにその2日後。なぜか骨折してもあまり痛みを感じなかったらしく、「どういうわけか」立ち上がれないので、アリナミンEXを飲んで寝ていた(!)とのこと。父(85)はご飯を作れる人なのだが、炊事に加えて洗濯、片づけとなるとムリだったようで、ようやくうちにSOSが来た……って、もっと早く連絡してよと思ったが、まあしょうがない。

土曜日だったが、あちこち電話をかけまくって、どうにか空いている病院を見つけ、入院。連休明けの12日に人工骨頭を入れる手術。90歳で手術なんて大丈夫なのかなとハラハラしたけれど、麻酔もそのあとの痛みもどうにか乗りきって、今はリハビリに励んでいる。

骨も筋肉もずいぶん細くなってしまったし、このあとスタスタ歩きまわるというところまではいかないかもしれないが(いや、本人は充分その気なんだけれど。ここら辺がわたしの母でありまして)、でもバーにつかまってどうにか歩を進めるところまではきているので、現代医学はすごいなとも、90で骨を折ってからでも人間は進歩できるんだなとも思うし、何より「くよくよしない」がモットーのうちの母は、やはり関東大震災と大戦を生きのびた人だけのことはあるなと思うのだった。(ちっちゃいし、胃は弱いし、欲もないし、母に比べたらわたしなんかまったくガツガツしてるなあと思うんだけど、どうもかなわないところがある。)

今は、このあとをどうするかということで、こちらにひきとるとか、あっちに住み込む(ムリ)とか、あらゆる選択肢をぐるぐる考えたのだが、やはり父も母も当然ながら自宅に退院することを望んでいて、ただ介護保険の認定がおりるのにまだしばらくかかるのと、段差の多い家の中を多少なり動きまわるにはもう少しリハビリが必要なのとで、多分、べつのリハビリ専門病院に転院することになると思う。

わたしは、子どものとき、危ないからと自転車を買ってもらえなかったので、今になって初めて府中で自転車を買って乗り回し、市役所、介護ステーション、リハビリ病院、母の入院している病院などをぐるぐる走りまわって、「へー、こっちに行くとこことつながってるんだ」なんて、生まれて初めて(?)府中を発見している。さすが競馬と東芝、サントリーなどの工場で潤ってる(?)だけあって、福祉は手厚い印象。でもまだわからないことだらけで、そういう局面に立ち向かうと、わたしは意外と「足で解決しよう」とするタイプなので、なんだか無駄にかけずりまわっているのだった(笑)。まあ、人間、日々勉強です。

そんな中、ほんの気休め程度に武蔵野線のなかで仕事をしたり……って、それだったら今ブログなんか書いてないでさっさと仕事しろよなのですが、頭の中にあることを吐き出さないと仕事に向かえないという因果なたちでして、こうしてしばらくぶりに書いているのでした。

もうしばらくはこんな具合に行ったり来たりしながら、合間あいまにブログを書いたり、いや、仕事をしたりという生活。何よりいちばんこわいのは自分がパンクすることなので、そうならないよう、上手に休みを入れながらがんばっていこうと思います。

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2010年1月 1日 (金)

年末年始 ~ A Happy New Year! ~

29日に仕事おさめ(といっても、まだ始まったばかりの仕事だけれど)。

そして昨日、一家で(でも長男はバイト)映画『アバター』を見てきた。いやあ、おもしろかったです。よくできていた。
評判どおり映像はすばらしかったし、異星パンドラの風景や文化、生態系などほんとうによく作り込まれていて、しかも言葉で説明してしまうのでなく、ストーリーと映像で無理なく何がどうなっているのかをちゃんと伝えてくれるのがすごい。いい意味でオタッキーなSFだ。
日本人好みではないのでは?と思った異星人ナヴィも、見ていると不思議と慣れてきて(笑)、ゾーイ・サルダナ演じるヒロインの美しさに惹きつけられる。
3Dは思ったよりも見やすくて、そんなに目、疲れないじゃん、と思ったが、映画館を出たらしばらく足元がゆらゆらーとする感じだったので、やっぱり軽く酔っていたのかも?

そして何より、ヴィジュアルブックの内容と齟齬がなかったことにホッとした(笑)。ホームツリーの内部の「DNAのような天然のらせん階段」というのがちゃんとあってよかったです。

で、今日はまた埼スタへ出かけて全国高校サッカーの応援。レンタカーを借りておとうさん、三男もいっしょに。相手は島根の立正大淞南高校。とても上手でよくパスを通してきたので、例によって苦戦だったけれど、2対1で粘り勝ち。勝ったせいもあるが、生で見るスポーツは楽しい。吹奏楽部のママ達ともハイタッチし合って、盛りあがった。

夜は生協のおそば(おいしかった!)。TVはK-1甲子園(これにも西武台の子が出てた。しかしいいのか、高校生にあんなことさせて)、紅白、N響の第九などなど。ジルベスターコンサートの年越し『ジュピター』、年をまたぐどんぴしゃのタイミングで終わって二男とともに「スゲー!」と感動した。

というわけで、みなさま明けましておめでとうございます!

年賀状は、ついにさわるヒマなく、後出しになってしまいました。申しわけありません。どうぞあしからず……。

明日は茨城に一泊の予定です。

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